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強すぎたマルゼンスキー!スーパーカーの異名を持つ生涯着差61馬身の最強馬伝説

デビューから引退まで、一度も負けることなく走り去った伝説の名馬・マルゼンスキー。

その圧倒的なスピードと完成度の高さから「スーパーカー」と称され、通算レースでつけた着差は実に61馬身――もはや勝敗という次元を超えた存在だったわ。

日本競馬の歴史において、「もし○○だったら」と語られる馬は数多くいるけれど、能力そのものが異次元だったという意味で、マルゼンスキーほど語り継がれる馬はそう多くないの。

なぜ彼はそこまで強すぎたのか。

そして、時代と制度に阻まれながらも“最強馬伝説”として今なお語り継がれる理由とは――。

このページでは、マルゼンスキーの戦績・走り・背景を紐解きながら、その規格外すぎる強さの正体に迫っていくわ。

目次

マルゼンスキーの基本情報・戦績

馬名マルゼンスキー
生年月日1974年5月19日~1997年8月21日
Nijinsky
シル
戦績8戦8勝
主な勝ち鞍’79 朝日杯3歳ステークス
調教師本郷重彦
騎手中野渡清一
馬主橋本善吉
生産者橋本牧場

マルゼンスキーの子孫は?

獲得賞金1億円以上のマルゼンスキーの子孫は以下の通り。

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馬名性別生年戦績主な勝ち鞍獲得賞金
カリブソング1986年44戦11勝91年 目黒記念(G2)5億3,504万円
スズカコバン1980年34戦7勝85年 宝塚記念(G1)3億7,495万円
サクラチヨノオー1985年10戦5勝88年 日本ダービー(G1)2億890万円
クラウンシチー1990年53戦7勝96年 京王杯AH(G3)2億810万円
レオダーバン1988年9戦4勝91年 菊花賞(G1)2億345万円
ホリスキー1979年19戦5勝82年 菊花賞1億7,684万円
ヤマノスキー1981年45戦7勝86年 関門橋S1億6,581万円
ネーハイビクトリー1988年36戦7勝93年 中日新聞杯(G3)1億6,220万円
インターアニマート1985年31戦4勝89年 中京記念(G3)1億5,586万円
サクラエイコウオー1991年15戦5勝94年 弥生賞(G2)1億5,099万円
ダイワダグラス1985年23戦5勝90年 丹沢S1億4,220万円
ブラックスキー1982年15戦7勝86年 新潟記念(G3)1億2,900万円
グランドロケット1987年35戦6勝92年 鳴門S1億1,223万円
バリエンテー1986年12戦4勝91年 京王杯AH(G3)1億1,200万円
ガスティーホース1985年34戦6勝90年 むらさき賞1億943万円
ダンディーハート1992年43戦6勝新馬戦1億44万円

スーパーカーと呼ばれた最強馬マルゼンスキー 生涯着差は61馬身!

まだ外国産馬にクラシックの出走権がない時代、アメリカから持ち込まれた1頭の牡馬がレベルの違いを見せつけていたわ。

父はイギリスの三冠馬で世界の大種牡馬、ノーザンダンサーの最高傑作と言われているニジンスキー。

母は競走馬として走る事は無かったが超が付くほどの良血馬のシル。

そんな世界が誇る血を持った馬が日本にやってきたの。

その尋常じゃない能力から、“スーパーカー”と呼ばれていたわ。

その馬の名は…

マルゼンスキー

マルゼンスキーが生涯で走った回数は、わずか8レースしかないの。

しかもその8戦すべてで勝利。

この8レースで2着馬に付けた合計の着差が61馬身。

この時代のどの競走馬よりも、ズバ抜けたスピードを持っていたわ。

1976年10月の中山でデビューしたマルゼンスキーは、2着馬に大差をつけて勝利。

だけど、この頃のマルゼンスキーは足元に不安を抱えながら競馬を走っていたの。

それでも続く東京の「いちょう特別」で、2着に9馬身差をつけて圧勝したわ。

そして、3戦目の府中3歳ステークスはマルゼンスキーが生涯で唯一苦戦を強いられたレースだったの。

スタートからハナに立っていくマルゼンスキー。

ただそのマルゼンスキーを、ヒシスピードがぴったりマークをしていたのよね。

直線を向き、逃げ切りを図るマルゼンスキーだったけど…。

追えども追えども、前2戦で見せた伸びが見られない…。

気が付けば、ヒシスピードに前に出られる場面もあったのよね。

ただ、最後は意地を見せ小差での勝利。

あとにも先にも、これがマルゼンスキーが生涯もっとも苦しんだレースにだったわ。

次にマルゼンスキーが向かったのは、3歳チャンピオンを決める朝日杯3歳ステークス。

6頭立ての少頭数となったこのレース、マルゼンスキーは1番人気で迎えたわ。

大外の6番枠から出たマルゼンスキーは、レベルの違うスピードでココでもハナに立ってレースを進めて行くの。

その2番手には前走同様、あのヒシスピードがいたわ。

ただ…。

そのまま直線を向き、府中3歳ステークスでハナ差まで迫られた馬に鬱憤を晴らすような走りでヒシスピードをちぎったの。

勝ちタイムは1:34.4で、当時のレコードでの勝利でだったわ。

年が明けて4歳になったマルゼンスキーは1月のオープンでも2着に2馬身半を付けて勝利。

誰がどう見てもクラシックで勝ち負けできる、いや勝つことが出来るほどの能力を持った馬でだったわ。

だけど、「規制」はマルゼンスキーを持っても変える事はできなかったのよね。

日本ダービーには出走できず

母馬が日本国外で種牡馬と交配し産まれた馬は、当時クラシックへの出走が認められてなかったの…。

日本ダービー開催を前に、マルゼンスキーの主戦を務めていた騎手中野渡清一はこう言ったわ…

『枠なんて大外で構わない。賞金なんかいらない。他の馬の邪魔もしない。

ただ、マルゼンスキーの力を試したいから日本ダービーに出走させてくれ』と。

しかし、この願いも虚しく叶う事はなかったわ。

もし彼がダービーに出走していたら…。

競馬ファンなら誰もが考える永遠のテーマよね…。

日本ダービーへの出走が叶わなかったマルゼンスキー。

次に出走したレースは、中山で行われる日本短波賞だったわ。

なんか止まった!

いつものように、スタートからハナに立っていくマルゼンスキー。

道中で2番手に10馬身以上の差を付ける楽勝ムードだったのも束の間、残り600mを切ったあたりから彼のスピードが落ち始めたの。

不自然な減速に、実況のアナウンサーも思わず「なんか止まった!」と叫んだほど。

無敗馬が負ける…誰もが予感したわ。

だけど、ムチが入るとそこから7馬身ちぎって勝利。

2着馬はのちに菊花賞を勝つ、プレストウコウだったの。

その馬を楽々とちぎってしまうのだから、まさにスーパーカーよね。

ここまで来るとマルゼンスキーが走るレースには頭数が揃わなくなっていったわ。

生涯で1番出走馬が集まったレースで、9頭立て。

マルゼンスキーが走る時点で、白旗を上げる陣営が多かったの。

夏を札幌で過ごしていたマルゼンスキーは、札幌のダート戦短距離ステークスに出走したわ。

ここでもヒシスピードに10馬身差を付けて勝利。

ただこのレースが彼にとっての生涯最後のレースになったの。

有馬記念の調整中に、屈腱炎を発症。

彼の引退が決定した瞬間だったわ。

その類まれなスピードは、マルゼンスキーが亡くなって20年弱経った今でも語り継がれているわ。

もし外国産馬がクラシックを走れる時代に日本に来ていれば…。

永遠のテーマを残し、伝説としてワタシたち中で生き続けているわ。

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