フサイチコンコルド
1995年にイギリスでわずか2戦でダービーを制した馬がいた。
その馬はニジンスキーの血を引く名を『ラムタラ』と言い『神の馬』と称された。
戦後の日本競馬においてこの馬より少ないキャリアでダービーを制した馬はいない。
そのキャリアわずか3戦。
今では考えられないような奇跡を起こした馬がいた。
音速の如くその競走馬人生を全うした馬。
名を…
『フサイチコンコルド』
別名…
『和製・ラムタラ』
父のカーリアンは日本ですでにシンコウラブリイとエルウェーウィンの2頭を輩出した種牡馬であり日本への適性も証明済みであった。
母のバレークイーンは欧州の大種牡馬サドラーズウェルズの血を引く馬であった。
その2頭により交配されたフサイチコンコルドはノーザンダンサーの3×3という割と血の濃い配合であった。
このフサイチコンコルドはこの濃い血の影響なのか体質が非常に弱いのであった。
デビューに向けて栗東へ輸送中に肺に病を起こし、それによる逆体温なども発症するようになってしまった。
このフサイチコンコルドの最大の敵は自身の体質の弱さだった。
それでも無事デビューにこぎ着けたフサイチコンコルドは1996年の1月に京都でデビューを迎えた。
ここを1番人気に応えた勝利。
そこから2ヶ月の間隔を開けてオープンのすみれステークスし出走。
ここも1番人気に応えて勝利。
皐月賞に向けて賞金を加算したのだが、調教師の小林は皐月賞回避を決定した。
こうなると目標はダービーになる。
しかし、ダービー出走でさえ順風満帆にはいかなかった。
当初はダービートライアルのプリンシパルステークス出走を予定していたのだが、東京競馬場への輸送の際に熱発を発症してしまった。
そのためこのレースを回避。
賞金的にはダービー出走は微妙ではあったがなんとか出走にこぎ着けたのだが、輸送の際にまたもや熱発を発症。
ゲートイン出来るかは微妙であった。
それでもレースはやってきた。
1996年6月2日第63回日本ダービー
ここでの1番人気は皐月賞を熱発で回避し前走のプリンシパルステークスを勝ったダンスインザダークであった。
本来なら、ダンスとコンコルドはプリンシパルステークスで相見えるはずであった。
2番人気がロイヤルタッチ。
3番人気が皐月賞馬のイシノサンデーとこの年もサンデーサイレンス産駒たちが上位人気を独占した。
ゲートが開きダンスインザダークは4番手からのレースを選択し、一方のフサイチコンコルドはそのダンスを見る形で進めていった。
フサイチコンコルド鞍上の藤田伸二は相手はダンス一本に絞っていたのだろう。
それほどダンスを意識した道中であった。
直線を向き武豊とダンスインザダークが先に抜ける。
藤田伸二とフサイチコンコルドはダンスの外に進路を取りダンスを目標に迫っていく。
残り200mでフサイチコンコルドはダンスインザダークを捕まえた。
その時、実況アナウンサーがこう言った「音速の末脚炸裂!」
武豊の夢を打ち砕くその末脚。
まさに、コンコルドが飛んでいるような脚だった。
これで、キャリア3戦目でのダービー制覇。
戦後、誰も見たことのない記録が達成された瞬間であった。
歴史に名を刻んだフサイチコンコルド。
しかし、この先も彼を苦しめるのは体の弱さであったのだ。
晴れてダービー馬となったフサイチコンコルドは秋は菊花賞を目指し京都新聞杯に向けて調整が進められたいたのだが、
調整が間に合わなかったため1週遅らしてオープンのカシオペアステークスに出走することとなった。
1.3倍の指示を受けたのだが、逃げた馬を捕まえることが出来ずに5馬身差をつけられての完敗であった。
そんな不安を残しながら、フサイチコンコルドは菊花賞に出走した。
2番人気の指示を受け、直線で一旦は先頭に立つも最後はダンスインザダークの鬼脚に屈し3着まで。
この後は、脚元の怪我に悩まされ二度とターフに帰ってくることなく引退することとなった。
そして、2014年11月15日に放牧の際に転倒し脚を骨折しそのまま“日本の神の馬”は文字通り“神”となったのだ。
3戦目でのダービー制覇。
今後、何年何百年と競馬が続こうともこんな記録を達成出来る馬は二度と現れることはないだろう。
わずかキャリアは5戦。
その中で本気で走ったのは奇跡を起こしたダービーだけかもしれない。
フサイチコンコルド
生年月日:1993年2月11日-2014年9月8日
父:Cearleon
母:バレークイーン
戦績:5戦3勝
主な勝ち鞍:'96日本ダービー(G1)
調教師:小林稔
騎手:藤田伸二
馬主:関口房朗
生産:社台ファーム早来
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