アドマイヤベガの基本情報
馬名 | アドマイヤベガ |
生年月日 | 1996年3月12日~2004年10月29日 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | ベガ |
戦績 | 8戦4勝 |
主な勝ち鞍 | ’99日本ダービー(G1) |
調教師 | 橋田満 |
騎手 | 武豊 |
馬主 | 近藤利一 |
生産者 | ノーザンファーム |
1993年に桜花賞とオークスを制したベガの初子として生まれ、 生まれながらにして様々な運命を背負わされた馬。
母を知る天才との出会いがその運命を現実のものにしたわ。
同じ府中の2400mで煌々と光り輝いた馬
そして、受胎をしたらなんとベガは双子を身に宿していたの。
競馬界ではこんな格言があるわ。
「双子の競走馬は走らない」と。
故に、ベガが宿した双子のうち片方の仔は潰され、もう一方が残されたのよ。
それがアドマイヤベガだったわ。
これもベガの血の宿命と言うべきなのが、生まれた時から脚が内向していたの。
超良血馬のデビュー戦は1998年11月の京都のマイル戦だったわ。
単勝オッズは1.7倍と圧倒的人気だったの。
直線を向いて最内に進路を取り武豊が追い出しにかかったの。
軽く仕掛けられたアドマイヤベガはとんでもない豪脚を発揮し後続に3馬身ほどの差を付けてゴール。
見事デビュー戦を飾ったわ。
思わぬ事態に遭遇したアドマイヤベガだったけど、その後は500万下のエリカ賞に出走。
ここも断然の人気に応えて勝利したの。
そして、この年の最大の目標である重賞獲りに向けて暮れのラジオたんぱ杯3歳ステークスに出走したわ。
人気は外国産馬と二分したが最終的にはアドマイヤベガが1番人気になったわ。
競馬のスタイルとして母とは全く異なるスタイルだったわね。
終いの脚を最大限に生かす。
これがアドマイヤベガのスタイルだったわ。
初重賞タイトルを取ると同時に、クラシックに本格的に名乗りあげたわ。
断然の1番人気だったけど、最後は先に抜け出したナリタトップロードを捕まえ切れず2着。
それでも悲観する内容ではなかったわね。
ここに思わぬ落とし穴が待っていたわ。
調整の失敗により当日の馬体重は−18キロ。
やはり良血と言えど、このような状態で自身の力を最大限発揮できるほどではなかったわ。
勝った、テイエムオペラオーから遅れること約3馬身差の6着。
この無念を晴らすのは1ヶ月後のあの舞台しかなかったの。
人気は3強に集まっていたわ。
1番人気は皐月賞3着からの巻き返しを誓うナリタトップロード。
2番人気は皐月賞1番人気の無念を晴らすアドマイヤベガ。
3番人気に皐月賞馬のテイエムオペラオーとなったわ。
この3頭の間にオッズの差はなかったの。
テイエムオペラオーは中団の8番手。
ナリタトップロードはそのテイエムオペラオーを見る形で11番手。
武豊をアドマイヤベガは後方3番手という位置で、お互いの鼓動でも聞いているのかのような感じで レースを運んで行ったわ。
それを見ていた武豊も徐々の2頭と距離を詰めていったわ。
坂を登りまずテイエムオペラオーが先頭に立ったわ。
それをナリタトップロードが追っていった。
その外から青い勝負服のアドマイヤベガが1完歩ずつ迫ってきたわ。
ゴールまで残り数十メートル。
若武者の壮大な夢を打ち砕いたのは天才だったわ。
それは、母ベガがオークス馬になってから6年後の出来事だったの。
母と息子が東の空に光り輝いた瞬間だったわね。
その前哨戦として、京都新聞杯が選ばれダービーで負かしたナリタトップロードをここでも豪快に差し切り勝利を収めたの。
外枠の14番枠からの発走となったアドマイヤベガは、道中折り合いを欠く姿も見受けられ、 最後の直線で追い込んでくるかと思われたけどその鬼脚は不発に終わったわ。
結果は6着。
これがアドマイヤベガの最後のレースとなってしまったの。
翌年に再び輝くことを誓ったアドマイヤベガだったけど、怪我を発症しそのまま引退したわ。
2世代目のキストゥヘヴンが桜花賞を、ブルーメンブラットは5歳の秋にマイルチャンピオンシップを制したわ。
どちらも、父譲りの豪快な決め手が持ち味の馬だったの。
そんな矢先に訃報が届いたわ。
これからという時の話だったわ。
今頃、天国で2頭で光り輝いていることでしょうね。