トウショウボーイ

トウショウボーイ

1967年にイギリス産の1頭の種牡馬が日本にやってきた。
競走成績に光るものこそないが、日高の組合がこの馬を購入したのだ。
その種牡馬こそ日本でノーザンテースト全盛の時代に鎬を削った「テスコボーイ」という馬だ。

既にテスコボーイは種牡馬としてG1級競争の勝ち馬を輩出しており、その地位を確立していた。
そのテスコボーイから“天馬”と称された馬が現れた。

その名は…

『トウショウボーイ』

トウショウボーイは1973年に静内町の藤正牧場で生まれた。
母ソシアルバターフライは藤正牧場がアメリカで購入した繁殖牝馬だ。
生まれたばかりのトウショウボーイは牧場スタッフの目を引くほどの雄大な馬体をしており場内では 「クラシックは間違いない」と言わしめるほどの馬であった。

3歳になりトウショウボーイは東京の保田隆芳に入厩した。
元々頼んでいた厩舎の調教師が、トウショウボーイの腰の甘さを指摘し預託に難色を示したため保田厩舎の入厩したのだ。

そんな腰の甘さが原因でトウショウボーイのデビューは日に日に遅れ、翌1976年1月末のの東京競馬場であった。
しかし、時期的には余りにも遅くクラシックには黄色信号が灯っていた。
そんなことはお構いなしにトウショウボーイはスピードの違いでデビュー戦を鮮やかに飾った。
このデビュー戦には、後に“TTG”と呼ばれる一頭のグリーングラス。
83年の三冠馬ミスターシービーの母シービークインが出走した「伝説の新馬戦」と謳われていた。
2戦目のつくし賞、3戦目のれんげ賞を連勝し3戦3勝で皐月賞に向かった。

1976年4月25日第36回皐月賞。
この年の皐月賞は厩務員ストライキが起こり開催が順延となり東京競馬場で行われたのだ。
トウショウボーイは無敗で参戦。
しかし、関西にも無敗の栗毛馬がいたのであった。
トウショウボーイの永遠のライバルとなる「テンポイント」だ。

1番人気はテンポイント。
トウショウボーイは2番人気であった。
最高のスタートを切ったトウショウボーイ。
鞍上の池上昌弘はそのまま好位の内にトウショウボーイを入れた。
一方のテンポイントは中団やや後方の馬群の中にいた。

そのまま直線を向いた池上昌弘は残り400mを切ってもまだ追い出さない。
そして、のこり200mを切ったところで追い出しにかかるとそこからは2着のテンポイントに5馬身差を付ける圧勝であった。

父から譲り受けた唯一無二のスピード。
首を低くする走り。
その走りからまるで馬体に翼が生えているようだと言われ“天馬”と言う異名が付けられた。

1976年5月30日第43回日本ダービー。
皐月賞を制したトウショウボーイが次に目指すのはもちろん日本ダービーだ。
調教師の保田隆芳は到底負ける気などなかった。
そして鞍上の池上昌弘にこう言ったとされている。

「ただつかまってろ」

馬の好きなように走らせれば勝てる。
そういう事だったのであろう。

絶好のスタートを切ったトウショウボーイは1コーナーでは先頭にたった。
その後、2番手に控えるかと思ったら再びハナに立ってしまった。
そのまま逃げたまま4コーナーを回り直線を向くとすぐ後ろにクライムカイザーがいた。
坂の下りで先頭を譲るとそのまま差を詰める事は出来ずに結果は2着。

ダービーの後、トウショウボーイは札幌記念に出走した。
この頃の札幌競馬場はダートしか備わっていなかった。
2戦目のダートで圧勝しているので問題はないと思われていた。
が、レースでは立ち遅れてスタートし直線で追い込んでくるも勝ち馬にクビ差及ばず2着に敗れた。
ダービーと札幌記念で負けた主戦の池上昌弘はこれ以降トウショウボーイに跨る事は無かった。

調教師の保田隆芳にとって菊花賞での勝利は絶対であった。
しかし、ここでトウショウボーイにある不安が付きまとうのだ。

“距離不安”である。

卓越したスピードが持ち味のトウショウボーイにとって京都の3000mは絶対的な自信を持って挑める舞台ではなかった。

その菊花賞の前哨戦として、神戸新聞杯と京都新聞杯に出走。
このレースから天才と称されていた福永洋一が手綱を取った。
この2戦ともダービー馬を撃破しいざ本番へ。

1976年11月14日第37回菊花賞。
距離不安なども囁かれていたがトウショウボーイは1番人気に支持された。
レースでは最後の直線で一旦は先頭に躍り出たのだが、グリーングラス、テンポイントに差され結果は3着。
ここの「TTG時代」が幕を開けた。
トウショウボーイは暮れのグランプリ有馬記念へと向かった。

1976年12月19日第21回有馬記念。
もちろんライバルのテンポイントも参戦。
新たな鞍上に武邦彦を迎えトウショウボーイは1番人気でスタートを切った。

13番枠からスタートすると馬の気の任せ5番手からレースを進めて行った。
先頭争いが激しくなる中離れた好位でじっと我慢している。
3コーナーでトウショウボーイは2番手に並びかける。
最後の直線で先頭に立ったトウショウボーイ。
テンポイントが追いすがるが1馬身半差で勝利。
4歳馬での有馬記念勝利は2頭目という快挙だった。

この年の年度代表馬に輝いた。

強い馬の宿命なのだろうか、春は脚部不安に泣かされてしまった。
復帰戦は6月5日の第18回宝塚記念。
出走頭数は6頭と少頭数であったが、6頭中5頭が八第競走優勝という豪華なメンバーが揃った。
休み明けと言うこともありトウショウボーイは2番人気での出走となった。
スタートを切りそのままハナに立ったトウショウボーイ。
テンポイントはトウショウボーイをマークする形で2番手にいた。

3コーナー過ぎから先にグリーングラスが仕掛けていく。
そのまま直線に向きトウショウボーイがそのまま押し切り優勝。
休み明けなどを全く感じさせない走りであった。

その後、中京の高松宮杯に出走。
斤量62㎏、馬場は不良と言う条件にも関わらず2着に2馬身半を付ける圧勝。
続くオープンも勝ったトウショウボーイは菊花賞以来の長距離の天皇賞(秋)へと向かった。

ここでも距離の壁なのだろうか7着と初めての大敗を喫してしまった。
この年での引退が決まっており残すところはあと1戦。
天皇賞の雪辱を晴らすのと、ライバルとの最後の戦いの有馬記念である。

1977年12月18日第22回有馬記念。
日本競馬史に残る名勝負として今なお語り継がれているレースの火ぶたが切って落とされた。

1番枠からスタートしたトウショウボーイはそのまま先頭にたちレースを作って行った。
そのすぐ後ろにテンポイントとグリーングラスがいた。
実質この3頭の争いであった。

トウショウボーイが先頭のまま進んでいき、3コーナー過ぎから早々テンポイントが並びかける。
しかし抜かせないトウショウボーイ。
残り400mを切ってからはマッチレースとなった。
直線を向いてテンポイントが先頭。
トウショウボーイがテンポイントに迫ろうとするが差は詰まらない。
外からグリーングラスが追い込んでくるがテンポイントに3/4馬身の差で敗れた。

種牡馬となったトウショウボーイだが競走実績程の人気はなかった。
しかし、ミスターシービーを世に輩出してからトウショウボーイの種牡馬としての評価は上がって行った。
その後も、日高の中小牧場で種付けに励み多くの牧場を救ったとされている。
この種牡馬としての成績も評価され1984年に顕彰馬に選出された。

19歳になったトウショウボーイを病魔が襲った。
それは、蹄葉炎。
病魔の判明後、スタッフ総出で賢明な処置が施されたが既に遅かった。
1992年9月18日に安楽死処分が執られて、ライバルテンポイントの待つ天国へと旅立ったのであった。

トウショウボーイ
生年月日:1973年4月15日-1992年9月18日
父:テスコボーイ
母:ソシアルバターフライ
戦績:15戦10勝
主な勝ち鞍:'76皐月賞 '76有馬記念 '77宝塚記念
調教師:保田隆芳
騎手:武邦彦
馬主:トウショウ産業(株)

アドレナリン競馬予想とは 2016年アドレナリン競馬的中実績
うま

copyright©2013 無料の競馬予想 穴馬的中に自信アリ | アドレナリン競馬 All Rights Reserved.

上部に戻る